「SANYO」の看板
12月群馬本校に帰った翌朝の新聞に、この三連休に看板がいよいよ「Panasonic」に変わるとの記事がありました。写真を撮っておこうと出かけたらもうはずした後でした。
思えば夫の勤務先が東京三洋電機ということで、四国松山の地から、親戚も知人も居ない群馬県での生活が始まりました。海なし県、「かかあ殿下とからっ風」、初めての冬は空気が乾燥しているため喉を痛めました。なぜか、今その頃のことが思い出されます。私は仕事関係で、プライベートなことはあまり話さない方でしたが、万華鏡を書くようになり、また、歳を重ね、少しは大人になったのか、書けるようになりました。
当時は、中学校卒の人達が多く入っていましたので、会社の中に、「東京三洋女子高等学院」という定時制高校のように毎日授業のある高校がありました。(正式には桐生女子高校の通信制)
2交替制が多くありましたので、昼クラス夜クラスとあり、ここの講師として入りました。やがて中卒を採用しなくなったので、これはなくなり、この頃から東京で勉強していた着付け教室を始めました。
学院を経営したいなどという願望はなく、ただ好きなことを生かしていきたいというだけでした。資格をとってから、初めにしたことは、自分の勉強のために、事情を話し、受講料無料で3人募集をし、教育実習のような時期を経ました。その間東京へ通いながら、指導内容 指導方法を、自分の思いも入れながら作って行きました。着付けの面ではまだ力のない先生でしたが、三洋の卒業生や周りの人達がどっと押し寄せ、教室が始まりました。
会社の高校がなくなり、そこに保育専門学校ができることになりました。この時、こちらのお話をいただきましたが、短大の専門の授業は力不足であること、現在着付けの勉強をしているからとお断りをしました。その後ここの別棟に新しく洋裁 和裁 料理 華道 茶道などと一緒に着付けが正式に入った、「さわらび学園」が始まり、こちらにお話をいただき、喜んでお受けしました。
1クラスが2クラスに、3クラスになり、自分の教室と、さわらび学園、養成した人達に助けられながら忙しいけれど充実した日々が過ぎていきました。
これまでに一度だけ本気でやめようと思ったことがあります。次女が2歳の頃だったと思います。東京に所属していましたので、行事や研究会に皆と同じように出席できなかったことや、子育てに手を抜いているような後ろめたさもどこかにあり、どちらも中途半端になってしまうとの思いでした。
その時、反対したのは夫でした。「今までが大変だったのではないか。ここまで来たのだから方法はあるはず。自分もできることは協力するから・・・」この言葉に驚きました。それまでは、自分の好きなことをするのでどこか遠慮しながらでしたし、当時は両方ともきちんとして、それができなければやめるという融通のきかない私でしたが、その言葉で、とても気持ちが楽になったような気がしました。その言葉を受けて、水を得た魚のように動けるようになり、この頃から、「完璧でなくても思いがあれば」の言葉を知ると同時に、私の「悪妻」が始まったのかもしれません。
親戚知人も居なかった私も、安心して子供たちを見て下さる人もできて、本当に人に恵まれました。
その頃感じたことは、「一生懸命本気でやっていれば、誰かが認めてくれるし、誰かが助けてくれる」ということでした。
仕事と子育てで精いっぱい、松山のことなどほとんど考えない年月が過ぎましたが、ある時、高校の同期会の案内があり、友人からの誘いもあって久しぶりに出席しました。これを機に、時々帰るようになり、ついに松山校開校となりました。ちょうどこれを決める頃、夫も迷っていたことがありました。技術の方でしたので、毎日遅くまで、休みの日も時々様子を見に行ったりと、忙しいけれど充実していたと思います。けれども、韓国サムスン三星電子からお話があり、随分迷いましたが、どうしてもしたいことがあるとそちらをお受けしました。
ちょうど二人が迷っていた頃、子供達もそれぞれ進路や仕事のことで迷っている時でもありました。
なかなかそろって休みが取れない状態でしたが、「家の中で考えていても結論が出ないから、みんなでどこかへ行こうか。そうだ、カナダへ行こう。」と急に決まり、その気になれば皆が都合をつけて、7泊8日のカナダ旅行をしました。みんなそれぞれの中で答えを見つけました。あんなに広いところで考えれば、絶対に後ろ向きはあり得ません。それから毎月、韓国と日本、松山と群馬の二人の生活が始まりました。不思議なもので、以前の毎日一緒に居た時よりも、よく話すようになりました。
そして、このカナダ旅行が家族そろっての最後の外国旅行になりました。
看板のことから内容が横道にそれてしまいました。こういう事情で、SANYOとはその頃から離れていますが、東京三洋電機から三洋電機東京製作所と名前が変わった時よりも、「SANYO」の看板が消えた今の方が胸にくるものがあります。
今これを書いていて、ずっと前からの生徒さん卒業生の皆さん、お世話になった方々のことが思い出されてなりません。この地で、夫と私を育てていただいた「東京三洋電機」と、助けていただいた関係の皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。
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