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<2006年2月>

 

小雪舞う 空を仰いで 母偲ぶ

学院長 1月、母の法事がありました。母が亡くなったのは1月14日成人式の前日でした。私はその前日、電話で話したばかりでした。

今思うと、母は自分を中心にものごとを考えたことがあったのだろうかと思うほど、家族のため、周りの人のために生きた人でした。家族のため教師もやめて、亭主関白の父と、子供たちにいっぱいの愛を注いでくれた人でした。
私が生まれた時は祖父母はどちらも居ませんでしたが、両家の父母を看とり、夫を看とり、子供たちの出産、娘や、息子の嫁の入院の付き添い、と、プロなみの付き添いでした。
本人も「大丈夫 私は不死身だから・・・」が口癖でした。私達は本当に、母は不死身で死なないものと思っていました。

私は結婚で知らない土地に行きましたが、よく電話をしました。どんな時でもどんな話でも、一方的に私が話すのを嬉しそうに聞いてくれました。( 私はほとんど嬉しいときに電話をしたと思います)

亡くなる前日も成人式の着付の話などをしたと思います。
知らせを聞いても実感がなく、一番にしたことは、成人式に受けていた何人かの着付を、生徒に振り分け、授業の講師の手配でした。

父が他界をしてからも、どんなに言っても一人生活を望みました。それからも身軽になったからと、娘や、嫁の入院の付き添いが徹底してきました。

あれだけみんなの面倒を見た人が自分は誰の世話にもならず逝きました。
もう一つの口癖は「してあげられるうちがいいのよ」
唯一、母が自分のために考え望んだことがこのことでしたから、望み通りに見事に生きたと思います。私にはとても真似のできないことですが、この母の娘であることを何より誇りに思います。

松山に居るようになってある年の夏、姉達と旅行をしました。
テーマは 「ルーツを訪ねて 天橋立」(ちょっと冗談ですが半分本気)
家の古いアルバムに、父と母が何人かの人と一緒に写っている若い頃の写真がありました。
教員旅行で行った天橋立、どうもあの頃から始まったらしい・・・との情報
昔のことですが、 職場結婚 恋愛結婚 だった父と母。  
「行ってみようか!」ですぐ決まり、天橋立から京都へのいい旅でした。
そうでした。母は自分のためにしたことがありました。それは父と結婚したことでした。

1年後、成人式の時、あるものに書くきっかけがあり、「母と娘」という文章を書きましたので、それをそのまま載せてみます。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

《 母と娘 》
普通、20歳ともなれば、上手に親離れ子離れをしているところの娘さんは、本当の意味で大人になり、母親を一人の人間として女性として認め、その欠点をも含めて付き合えるようになれるはずです。ところが、うまくできていないところは、ちょうどこの時期、恋をする頃になって、親をうとましく感じ、離れたくなり、自分がおしゃれも上手になって、表面を磨いていくにつれて、自分の親をセンスがなくて恥ずかしいという人があります。

母と娘が、大人の女性としてお互いを認め合い、助け合って、前へ向いて歩いていけるなら、こんなに素晴らしいことはありません。きものを通して、こういう母と娘の素敵な関係を作ってほしい。私が一番望んでいるのはこのことです。

きものに関することは、母が娘に教えることが望ましいけれど、その逆の場合があってもいいではありませんか。親と子としては全く違う立場にあっても、女の一生を考えてみれば、20や30 年齢が違っていても、女坂の途中をあるいていることにおいては、たいした変わりはないはずです。そして、たいした変わりはないと思っていた娘が、母親が亡くなった時、別の意味で、娘は絶対に母を超えられないことを、そして、母の偉大さを知るものです。

お嬢さん、お母さんにこんなにきれいにしていただいたあなた。今度は、お母さんの持っておられる美しさを引き出してあげる番です。これを本気でしようとした時、そして、お母さんを美しいと感じた時、あなた自身も、もっと美しくなっているはずです。

  反省はしても 後悔はせず
  努力はしても 無理はせず
  命ある限り・・・
  登りつめよう  女坂
 ( 76年 静かではあったけれど 自分の中の女坂を 見事に登りつめて 逝った母を思って・・・)

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

母との別れの日、小雪が舞っていました

小雪舞う 空を仰いで 母偲ぶ     

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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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