かざみきもの学院
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<2006年10月>

 

恩師 高林三郎先生

学院長 着物が好きで、あるきっかけがあって東京へ通い、教室を始めましたが、しばらくは、はっきりした信念もなく、「子育てで忙しい中での自分になれるとき」という感覚で過ごしていました。

私が本気になったのは、大きなきっかけがありました。
毎年「新春きものパーティー」をしているのですが、長女が中学生のときです。我が家では、そのきものパーティーには、大人の着物が着られるようになったら出席させてあげるということになっていましたから、5歳下の次女は出席できず、おねえちゃんが羨ましくてたまらないというところでした。

その年、初めて 全国きもの指導者協会の創始者、恩師 高林三郎先生をお迎えしました。

前夜、先生と夫と三人で食事をしながらゆっくりお話させていただきました。
当日盛況のうちに終了してから、先生を太田駅にお見送りしたときのことです。
先生から「お家へ帰ってから読んでください。」とお手紙を頂きました。そして「渡部先生 お願いしますよ。」と握手をしてくださいました。先生はお会いしたとき、よく握手をしてくださる方でしたが、このときはいつもと違う何かを感じました。

すぐに会場の後始末をしているスタッフのところに戻りましたが、家へ帰るまで待てなくて、会場で一人でそっと開いて読みました。
先生の「きもの」に対する思いと、私達に託すお言葉と、最後に最近ご不幸があったことが書かれていました。後で聞いたお話ですが、京都の先生達に、「群馬の行事が終わるまで東京方面へは知らせないように。」とのお達しがあったそうです。

実は私も、母を亡くしたばかりでした。( 2月の万華鏡に書きました )
1月14日突然の母の死に、帰省し、群馬に戻るとスタッフが「きものパーティーどうしましょう?」と気を遣ってくれました。普通の私ならとてもできない状態でしたが、冷静にこういうときはどうすべきなのか考えました。立場から言うと渡部家の母ではなく、実家の母でしたし、プライベートと仕事は別であること、先生をお迎えする予定であることを、皆に話し、先生や生徒さんには伏せておいて、いつもと同じようにするようにと伝えていました。

先生も私も、悲しみを胸に秘めての 楽しい( ?) 新春きものパーティーでした。
そのときから、私は本気になりました。

その年、協会の全国の理事は、先生からお写真を頂きました。まるで先生の思いを託すかのように・・・そしてその年の終わり、亡くなられました。
この年の初めと終わりに大切な人を二人亡くしましたが、それからこの仕事に本気で取り組むようになりました。不思議なことに、次の年から仕事関係で新しい人との出会いが何度かあり、その方々には大きな力をいただきました。 

この新春きものパーティーにはおまけのお話があります。

中学生の長女がはじめて出席したのですが、すべてを終えて家に帰って椅子に掛けると、彼女がだまって私にお茶をいれてくれました。私が「ありがとう」のほかには何も言わなかったので、彼女も言葉が見つからなかったのかもしれません。先生のことは知らないのですが、母の葬儀に一緒に行きましたので、それから、きものパーティーで、大勢のきもの姿の人を目の当たりにし、母親がみんなの前で何を話し、どう振舞ったか自分の目で見たので何か感じるものがあったのでしょう。このときのお茶の味は忘れられません。

娘が大きくなったことと、いい子に育ったという満足感と、諸々の思いが駆け巡り、そしてまた、先生のことがあまりにも大きいことだったので、すぐに話せず、夕方まで黙って過ごしました。話しかける雰囲気でなかったからか、夫も子供もそっとしておいてくれました。

その優しさに感謝しつつ、夕食のときに先生のことを話しました。今でもこの日のことはよく思い出します。

高林三郎先生のお教えは、語り尽くせないほどありますが、その一つひとつを、これからもできるだけ多くの人に伝えていきたいと思います。


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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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