かざみきもの学院
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<2007年3月>

 

感性で動く

学院長 先日の学院の資格証授与式に、「着てこそ着物」のお話をしました。箪笥の中で眠っているものは着物ではなくただの布であり、人が着てこそはじめて着物になることを。
同じ形の着物が着る人により着方によって変わってくる、着る人の、人となりが表現される、これが着物の最高の魅力だと思います。着付け教室が沢山あって、着付けを習う人は多いのに、この着物の本当の素晴らしさを伝えきれていないのか、着る人が少ないように思います。着ることによって、着物の素晴らしさを肌で感じてほしい。頭ではなく、肌で感じるのが一番確かなような気がします。それは「感性」「本能」にうったえるからです。

はなやかに しなやかに
さりげなく あたたかく
あでやかに 気品たかく
その時々の女性の心を演出してくれる きもの
着た人にしかわからない
袖を通したときの ときめき
このときめきを あなたに感じて欲しい

きものには 物語がある
遠い昔の・・・ あの日の母のきもの姿
いろいろなきものを着てみて
行き着いたところは あの 母色のきもの

高校生のとき、初めて自分で買ったゆかた帯
今でも大切に持っています

きものを着ると、周りの人がやさしくなる
新幹線では知らない男性が荷物を網棚に上げてくれ
お先にどうぞと道を譲ってくれた
私はレディになった

大分前のお話ですが、娘の中学の入学式のとき、知人が着物を着せて欲しいと来られました。二枚持って来られてどっちにしようか迷っているとのこと。そして「こちらはこの間着たからこっちを着たいのですが・・・せっかく着付けしてもらうのだから帯は変わったのにして欲しい。」その日は私も出席するのですが、時間があったので先に着付けをしてあげました。その方が着たいと言った華やかな訪問着ではない、無地に近い静かな感じの付け下げです。帯結びは定番の二重太鼓です。お子さんが主役の儀式であること、会場がシャンデリアのあるホテルのパーティー会場でなく、学校の体育館であることなどお話しました。分っていただきましたが、まだちょっぴり心残りのようでした。
実は私は、これまで持っていた無地の着物よりかなり地味な、法事に着てもいいような着物を作ったばかりでした。その後でその着物に着替えて入学式に出席しました。
体育館に入ったとき、制服姿の生徒達がきれいに並んで座っていました。このとき、自分の着物がこの場にピッタリだということを肌で感じました。
終わってから彼女の姿が見えました。みんなに「素敵ね」「きれいね」と言われてうれしそうな様子だったので安心しました。

「肌で感じる」という言葉は広い意味でも使われます。理論でなく、五感で、何となくとか、その場に身を置いてみてどう感じるかとか、そんな風にも使われます。私が言う「肌で感じる」とはそういう意味です。

私は、以前は「石橋をたたいてもう一度考える」部類に入る人間でした。両親には不言実行が最高の美徳と教えられ、負ける勝負ははじめからしたくない、気の小さい完璧主義を目指すタイプだったような気がします。

この仕事をしていくうちに、だんだん変わってきました。
最近は、一言で言うと、「理論よりも感性優先」。 感じたままに動き、後でその理論付けをしているようなところがあります。どちらがいいかは分りませんが、はっきり言えることは、この方が楽しいことは事実です。

人として生を受けてきたのに、必要以上に、他人にどう思われるかばかり気にして、不満を持ちながら、本当の自分を知らないまま過ごしていくよりも、与えられた一生を、精一杯前向きに生き抜くこと。これはこの世に送り出してくれた両親の愛情に応えることにもなります。

私は今でも変わりたいと思っています。それは現在の自分、過去の自分を否定することではなく、色々なことから、人から、何かを学び、自分が何を感じ、そのことによりどう変わるか、という楽しみです。
感じたままにとは言っても、自分なりのルールがあります。自分も含めて、人を否定しない。自分も含めて、人を不幸にしない。できることなら、自分も含めて、誰かの幸せに役だちたい。
これは動いた後での自分の行動の分析とでも言うのでしょうか・・・
気づいてみると、このルールは無意識のうちに体のどこかに置きながら動いていたので、安心して「理論よりも感性優先」で楽しくいこうと思っています。

最近少し自分の中に「よどみ」があったように思います。これが強くなると自己嫌悪です。
でも、今・・・何かが変わる予感がします。

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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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