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<2011年12月>

 

特攻花

 10月、ドクターイエローのところで、九州新幹線に乗りたいと書いていたちょうどその時、姉から九州旅行の誘いがありました。タイミングが良すぎてこれはどうしても行かなくてはと即承諾。

 新幹線で熊本下車、菊池渓谷 久住温泉泊。翌朝、今年初めての長くて美しい宝石のような霜柱を見ました。翌日は阿蘇草千里 そして鹿児島、指宿泊。その前に知覧特攻平和会館に行きました。九州へは何度も行きましたが、ここは行ったことがありませんでしたので是非行きたいと思っていました。

 太平洋戦争の末期昭和20年、操縦を習い終えたばかりの少年航空兵や学徒航空兵が、片道の燃料で、爆弾を積んだ航空機ごと敵航空母艦に体当たりして、沖縄の海に散ったことは、日本人なら、いえ、世界の人も知っています。色々なところで取り上げられ、映画やドラマから知った人も多いと思います。
搭乗員を大量養成して、忠実な特攻隊に編成し、個人の思いが戦争の支障や、反戦思想に結びついたりしないよう教育されました。

 知覧特攻隊を語る時は、軍用食堂であった「富屋」の鳥浜トメさんのことが必ず出てきます。
「明日は死にゆく若き隊員達にしてやれることは母親になってやることしかない」と、皆をわが子のように可愛がり、人に明かせない悩み悲しみ恐れを聞き取り続けていたトメさんを隊員はいつか「おかあさん」と呼ぶようになったことはよく知られています。現在東京都知事の石原慎太郎さんは、彼女を、「その手にたくさんの赤子をかかえた仏の姿」と表現しています。
石原慎太郎さんが制作した映画「俺は君のためにこそ死ににいく」の中で、岸恵子さんがこの役を演じました。また、特攻隊員でありながら、途中で飛行機の調子が悪く引き返し、改めて行こうと思ったら戦争が終わっていたという人の苦悩を高倉建さんが演じたのが「ホタル」です。

 私はずっと前に、特攻花のことを誰かから聞いたことがありました。特攻隊員が飛び立つ前に、女学生達が手渡し、その花を投げたのが、風に乗って散らばって、その後毎年その花が咲いている。というコスモスに似た形で黄色い花、春車菊、大金鶏菊と言われます。今回調べていると、別の花が出てきました。九州と沖縄の中間に喜界島と言うところがあり、知覧からの特攻機の中継地点であり、最後に飛び立った場所で、地元の娘達が野の花を手渡し、隊員が、 一緒に散るのは忍びないと 、滑走路にそっと花を置いたと言われ、今でも飛行場の隅には咲いているとのこと。写真家の仲田千穂さんが19歳の時喜界島でこの花に出会い、ずっと撮り続けているこの花は「天人菊」です。
そんな中で、それらのことに反論し、特攻花は「桜」と言いきっている人達もおられます。  
こんな時に差し出したのは、外来種の花なんかではなく日本の桜と言い切る気持ちはとてもよく分かります。確かに、知覧平和祈念館に展示されている写真、20年4月11日、知覧高女、なでしこ隊が差し出しているのは桜のようでした。

 私はどれが正しいかこれ以上調べるつもりはありません。それぞれが信じた花でいいと思います。
花を時々思い出し、若くして沖縄の海に散ったこの特攻隊員のことを、そしてまた、戦争について考えることは大切なことだと思います。岸恵子さんが、映画になる前、「戦争や特攻隊を美化しすぎ」と、石原慎太郎氏に一部直させたという話を聞いたことがあります。

 鳥浜トメさんの言葉で「なぜ彼らはかくも毅然とし、かくも立派なのか」とあります。
平和祈念館で見た遺書、毅然とし立派な彼らが書いた最後の言葉はやはり故郷の「お母さん・・・」
帰って調べる中、遺書の数々を見て、「毅然」と「お母さん」の言葉が交錯して涙が止まりませんでした。

 万華鏡は長い間書いていますが、今回ほど時間のかかったことはありません。このことはあまりにも重すぎて、そしてまた私も聞いたり調べたりしたことですので、正しいか間違っているか分かりません。1,2ページに軽々に書けるものではありません。
そこで今回は、本筋に迫らず、花にこだわり、タイトルは「特攻花」にしました。

学院長
<開聞岳>

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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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