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<2012年12月>

 

たびだち

学院長  11月、次女が結婚しました。本人達の希望で、式は日光二荒山神社で、親族で行い、別の日に友人の方をお招きして、地元のホテルで披露となりました。東京の長女は、結婚式は明治神宮でとの希望があり、明治記念館での披露宴となりましたが、次女の話を聞いた時、 「え!どうして日光?」 と思いました。

 日光二荒山神社は、歴史は古く、日光山内最古の建造物とされ、徳川家康を祀った東照宮の隣にあり、秀忠により本殿が再建され、今では世界遺産に認定されていますが、縁結びの神様として知られています。山間の峡谷に架けられた朱塗りの神橋を渡ってから式を挙げるこの神社の結婚式は人気があり、友達の間でもよく知られているそうです。
彼女は高校時代の部活の友達とのお付き合いが長く深く、みんなで行った時も相手が決まる前に、ここでという話が出たそうです。そしてまた彼と遊びに行った時、ここでプロポーズをされたとか・・・。ここを選んだことに納得しました。

 親族少人数での式になったので平日に挙げたにもかかわらず、友達2人が、神橋を渡るのを見たいと、休みをとって来てくれたのには驚きました。 「みんなの代表で来ました」 とのことでした。友達にも恵まれ、お互いを理解し合える価値観の近い伴侶にも恵まれ、これで私も安心しました。

 式の前に神橋を渡り神社の控室に居て、二人が庭に出て写真を撮っている時、とてもいいお天気だった空に雲が出て、雲の間から一筋の陽がさしたと思うと、明るい空から急に雹が降ってきました。勢いよく降ってきた雹は地面で跳ねていました。あまりにも珍しい神秘的な状況の中、長女が「お父さんが来た!」と声に出しました。式が始まる時、どこから入ったのか、雹が二つ三つ私の前に落ちていたのに気付きました。

 次女は赤ちゃんの時からぐずらない手のかからない子でした。進路も自分で決め、文化女子大で洋裁を学び、その後、山野美容専門学校で美容を学び、美容師の資格を取りましたが、やはり衣の方が好きなようで、清水ときさんの学園で和裁を学び、卒業後、かざみの仕事をするようになりました。その後も退職された東京の和裁の先生の所へ通いました。お色直しの振袖も自分で縫って、私が着せましたが、前姿はほとんど自分でして、あっという間のお色直しでした。

 私は、子供の一生はすべて丸ごと本人のものという考えで、親の都合や、自分のできなかった夢を子供に託すという考えは好きではありませんでした。けれども気付いてみると私の傍に居て、群馬本校の責任者として頑張っています。

 小学校低学年以外は、朝起こさなくても自分で起きてきたように思います。いえ起こさないから起きたのだと思います。( 姉が起こしたのかもしれませんが・・)忘れ物があっても他の人に迷惑をかける物以外は学校に届けるということはしないで、自分が不自由だったり、恥ずかしい思いをすれば、その経験を生かし自分の責任において考え行動できるようになるという考えでした。

 文化に入学して1年間は寮生活を経験し、2年目は、寮は出たけれど一人生活をさせました。当時長女も東京で一人生活をしていましたので、普通は2人一緒にと言うところですが、このことで、「自分が行動を起こさなければ、自分が発信しなければ、何も始まらない」ことを1年間の体験から学んだと思います。

 当時は私が毎月松山を、父親が毎月韓国を往復し、家族が4人なのに住まいが5箇所という変な家族でした。お正月だけは都合をつけてみんなで一緒に居ましょうということでしたが、今度のお正月からはそういう訳にもいかなくなります。姓は変わりましたが、彼の職場がすぐ近くなので、しばらくは我家に入って「マスオさん」ですので、仕事も変わりなくできることも幸運でした。私がほとんど松山なので2人の家とも言えますが・・・ お正月くらいは先方で過ごすべきと思っています。

 ずっと、自立できるようにと考えていましたので、結婚式も私の希望で、仕事がらみの多くの人を招待することなく、本人達が思う通りのことを叶えてやりたいと、この形をとりました。友人への披露の会も、毎年学院が最低2回は行うこのホテルでの行事を、何年も前から彼女が仕切っていましたので、心配はありませんでした。

 準備の段階からほとんどのことは自分達で考え運び、進めて行けるようになったことを喜ぶと同時に、これが本当の「たびだち」なのだと複雑な思いもあります。

 来年の成人式に向けての帯結びの中に、「たびだち」と「祝杯」という二つの帯結びを考えました。

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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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