かざみきもの学院
トップ 学院長 本校 松山校 万華鏡 イベント アルバム

<2017年9月>

 

「否定のことば」は何のために?

 否定の言葉に関しては、いつも気になることなので、何回か万華鏡にも書いたかもしれません。
否定をする時は基本、対案があり、ない場合も、「やはりこれはこういう理由で違うと思う。具体的な案が見つからないけれど・・・」 これに対して皆が考え、誰かが良い案を出してくる。初めに案を出した人も 「なるほどそれがいい」、と納得すれば、前向きに進んでいく。
「幼い会議」 に見えるかもしれませんが、私はこれが基本だと思っています。なぜかと言うと皆がより良い方向を共に考えること、ましてや、この中では個人の人格を否定する人は一人もありません。

 政治やその他に関しても否定の言葉について意見はありますが、ここではやめておきましょう。どの場面でも、前向きでない否定の言葉はずっと前から気になっていました。そういえば、私は、子どもの頃から母に 「他人を悪く言うのは恥ずかしいこと」 と言われてきたことを思いだしました。子どもの頃に言われていたことはずっと残っているようです。

 私もこれまで指導をする立場なので、否定の言葉も使いますが、もちろん人格を否定する言葉は使ったことはありません。よりよくするために 「なぜこうするか」 を理論で話すと納得してくれます。納得したことは年数が経っても、その人が、自分の力で思いだしてくれると考えています。

 最近、私はよく自分の歩いた道をふりかえることがあります。無意識に走っていたことを今になってあの頃はこういう考えで動いていたのだと思うようになりました。そしてここ何年かは、不思議なくらい、流れに任せて、自分のことも、周りのことも、自然体で受けとめ、色々経験する中でまた新しい発見、気づきもあります。同じことをしているようでもその時期によって、とらえ方、感じ方が違います。自分がこの道を歩いて、どう生きて、今に至ったか、考えると、「こういうことかな」 と思います。

・・・ある時、自分の中にもう一人の自分が居ることに気がつきました。それでいろいろなことが納得できました。私の背中(?)に、とても冷静で、物事を客観的に見る、そしてまた母親のようなもう一人の私が居るのです。私の前面には、自由に考え行動しようとする私が居ます。前の人は後ろの人を全面的に信頼していますから、後ろの人がだめといわない限り、前の人は安心して、のびのびと考え行動できます。気持ちの奥のほうにあるものまで知ることができます。考えなくてもいい事を考えて、なかなか一歩が踏み出せなかった以前の私とは大分変わりました。
万華鏡(2005年5月)「もう一人の私」 より)

 東京に拠点を持つことを熱心に勧めていただいた方々に感謝しながらも、「自分らしく」 を優先し、松山校を開校して 23年。4年 6カ月で全国きもの指導者協会、総会開催校として大和屋での総会、翌日、県民文化会館 (ひめぎんホール) でのショー。群馬本校からも大勢参加して・・・。次々色々なことが思いだされます。

 いえいえ、ここで言いたいのは 「否定の言葉」 についてです。大きいイベント以外で毎年2回 「着物の集い」 を行います。強制ではなく、どなたでも参加できる会で、かざみ会役員が中心になり準備をしますが、役員の中でも事情があって皆と同じように動けない時もあります。これが続くこともあります。これまで、誰一人不満を言う人はありません。初めて参加する人の着付け等もありますが、役員でない人からも、「お手伝いすることがあったら言って下さい」 と声がかかりました。いつも静かで控えめな人で自分から声をかけるタイプではないと思っていましたが、講師、着付士の資格を取得し、着付けの技術は確かな人です。今では会場の打合せから仕事の担当決定等私は何もしなくてよくなりました。
特別意識することなく、女性の集まりで自然にこの体制になれたことを、スタッフに感謝すると同時に、このことは私の誇りでもあり、歩いてきた道は間違いではなかったとしみじみ思います。

  一人ひとりの近くに居て、それぞれの事情を把握、理解し、その人の立場で考える。
  同時に一方では、1歩2歩と退いてみて、視野を広げ客観的に全体を見る目を。
  最近特に感じていることは、「教えることは学ぶこと。どの人からも学ぶことがある。

 今実感として、「まだ私は人の影響を受け、変わることができる」 と感じているところです。

バックナンバーはこちら (毎月5日更新)

渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
▲このページのTOPへ
©2005 かざみきもの学院